新しい「余生」の意味

働き方改革や、その一環としての副業の解禁、そして少子高齢化の中での定年延長などの動きを受けて、中高年の働き方とか、定年後の過ごし方に関する本や記事を目にすることが、このところ格段に増えたと感じます。

自分の場合、50歳前後で「繰り上げ定年」をして仕事に一区切りつける、と30台の半ばで決めていて、図らずもちょうど50歳で会社を辞めることになり、辞めたと思ったらこうしたブームというか流れがくるというのも不思議な感じがしてしまうのですが、「繰り上げ定年」をするといっても、そこでいわゆるアーリーリタイアメントをする、という発想ではありませんでした。

なにより、アーリーリタイアメントできるほどの老後資金が稼げていない、というのが大きいのですが(人生100年時代となり、「老後」が長引くのであればなおさらです)、自分は「仕事」が嫌いではないし、仕事を続けたいという気持ちも同じように大きくありました。ただ、その当時はまだ、一つの会社にずっと勤めることが一般的でしたし、副業も禁止されているのが当たり前でしたので、今の本業とは違う仕事をどこかの組織で始めて、50歳から20 年くらいをかけてもう一つの本業をやって、そこで引退かな、というくらいの意識でした。

実際に50歳を迎えてみると、時代も変わって、例えば会社法の規定の緩和で個人が会社を作って起業することも格段にハードルが下がりましたし、そういう動きをサポートするサービスも生まれ、必ずしも既存の組織に属さなくても仕事を続けられる条件が整ってきています。この流れはここ数年でさらに加速していると思います。

むしろ、追いついていないのは私たちの意識の方で、転職したり起業したりすることの可能性とリスクを、自分が社会人になった当時の状況をベースに考えていて、現実に即した判断ができていない、というケースが多いのではないでしょうか。

自分の場合は、海外での仕事を通じて現地のカウンターパートの人たちとのおつきあいをプライベートなレベルに深められたことや、出向を通じて異なる会社で働きそこでスタートアップ企業と仕事をする機会に恵まれたことなどがあって、仕事を通じて現実の世の中の動きを知ることができたことは大きな幸運でした。

「繰り上げ定年」後の「余生」は、かつての余生の意味とは大きく違って、言ってみれば「社会人としての再スタート」です。若さで劣っている分を、時間やこれまでの経験で補いながら、2回目のテイクオフを果たすこと。それが、現代的な意味での「余生」かな、と思いますし、もう少し時代が進むと、それが3回4回ということも珍しくなくなって(現代でもシリアルアントレプレナーはそういう人たちだと思います)、「余生」という言葉も消えていくのかもしれないし、あるいは90歳以降の人生のことを指す言葉になるのかもしれないな、と。

大学時代の恩師は、若くして気候学の分野で大きな学術的業績を残した人で、専門外であるにもかかわらずマイナー言語の辞書を作ったりなど多才(かつ多彩)な活躍をされた方でしたが、その大きな業績を残したあとに「あとは余生を送るだけです。」とおっしゃられた、という逸話がずっと頭に残っています。自分が耳にしたわけではないので詳しくはわかりませんが、40歳の頃には「余生」を送る生活に入られた、ということになるのではないでしょうか。実際に指導していただいたのは、もう先生が定年に近い頃でしたので、この言葉が発せられたのは当時としても古い話なのだと思います。

恩師が若くして送り始めた「余生」を、先生よりもずっと遅い年齢から、しかも大きな業績を残したわけでもないながら自分も送り始めた中で、「あとは余生を送るだけです。」という言葉が、再び頭の中で響いています。

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